Graduate School of Environmental Science

環境科学の座標軸を提示する

28th June Prof Tsunogai

2012-06-22

6月28日(木)、16:30-17:30、D102室にて

2002年に本学院を教授として退官した角皆静男先生による「西暦775年の謎」と題したセミナーを開催致します。奮ってご参加頂ければ幸いです。

地球圏科学専攻 渡邉豊
要旨
[西暦775年の謎] 
 Nature誌の電子版に名古屋大学のF. Miyakeらの論文が出ていた。それは屋
久杉の年輪を利用して、年ごとの14C/C比を測定した。すると、西暦774から
775までの1年間にこの比が12 ‰増大していた。通常の太陽系の宇宙線の変動
幅の20倍の大きさだった。年齢に換算すると1年間に約百年若くなったことに
なる。これだけ大きな変動を起こせるものがあるとすれば、地球近くでの超
新星の爆発か、大きなSolar Proton Event (SPE)ぐらいしか考えられないと
著者らは言っているが、時間分解能をこれだけ上げて測った例は初めてだろ
う。
 なお、大気中の14Cが12 ‰増大しても、海洋にはその50〜100倍量の14Cが
存在するので、地球表層部全体での14Cの比放射能の増加量(率)はたいした数
字にはならない。また、全海水中の14Cの1/1000程度が1年に大気のCO2と交換
する程度であり、海洋表層100 mに限ると滞留時間は30 年くらいになる
 もう1つ、この頃、(暦年代−14C年代)がマイナスとなるが、その極大値
がこの奈良朝末期にある。それも何かを語っていよう。大気の14Cを増やした
のは、宇宙線による14Cの生成率が高かったのか、海洋が成層化したのかだろ
うと思う(成層化、つまり、海洋での14Cの滞留時間が長くなる、海に入る
14Cが減る。その結果、大気の14Cが増え、陸の植物の14C年代が若くなる、私
は後者で説明できるのではないかと思っているが、これだけ生成率が違うと、
前者も無視できない。AD775が問題なのは、氷期が終わると、暦年代−14C年
代の差がぐんぐん小さくなり、この頃が最低となった。この後、室町、江戸
時代は、また少し大きくなった。私に言わせると寒くなった)。
 さて、この775年は遣唐使だった吉備真備(きびのまきび)が死んだ宝亀6年
だった。この奈良朝末期には生臭い話や混乱が続いていた。14Cの異常とまっ
たく無関係だったのだろうか。無理にこじつけるつもりはないが、その頃の
奈良のことを少し書いておこう。
 この奈良時代、天皇は第49代光仁天皇(即位は770年宝亀元年)だった。なお、
真備は霊亀2年(716年)22歳のときに遣唐使となり、翌養老元年(717年)に阿倍
仲麻呂らと入唐した。帰路では種子島に漂着するが、天平7年(735年)に多く
の典籍や日時計、楽器など携えて帰国した。また、天平勝宝3年(751年)には
遣唐副使となり、翌4年に入唐、阿倍仲麻呂と再会し、その翌年には、屋久島
に漂着するが、鑑真を伴って帰朝する。
 光仁天皇は、即位後、第45代聖武天皇の娘、井上内親王を皇后とし、他戸
親王を皇太子としたが、宝亀3年(772年)皇后の井上内親王は呪詛し大逆を図
ったという密告で罪になり、皇后を廃され、皇太子の他戸親王も廃された。
翌、宝亀4年(773年)には後に桓武天皇となる山部親王を立てて皇太子とした。
これにも陰謀があったとされる。さらに、同年、天皇の同母姉の難波内親王
が薨去したのは、井上内親王の呪詛によるものとして幽閉され、連座して王
に落とされた他戸親王も幽閉されてしまう。やがて、宝亀6年(775年)、二人
とも変死する。これによって天武天皇の皇統は完全に絶えた。ところが、藤
原式家の兄弟も相次いで亡くなる。宝亀6年(775年)に九男の藤原蔵下麻呂、
宝亀8年(777年)に次男の藤原良継と三男の藤原清成、宝亀10年(779年)に八
男の藤原百川、天応2年(782年)に五男の藤原田麻呂だった。
 光仁天皇の即位について便宜を図った藤原百川と藤原蔵下麻呂がともに急
死したので、祟りを恐れた光仁天皇自身により秋篠寺建立の勅願を発した。
開基は善珠僧正で、山部皇太子の第一皇子として出生した安殿親王(後の平城
天皇)も病を得たが、善珠僧正の回復祈願で平癒した。だが、以下のような天
変地異が続いた。
 宝亀6(775)年7月から8月、黒鼠の大群・雹・飢饉・野狐・風雨があり。8月
22日、伊勢・尾張・美濃で風水害があり、伊勢斎宮を修理した。9月20日、霖
雨(幾日も降り続く雨)、10月6日、地震。
 翌、宝亀7(776)年2月6日に流星、4月1日に日食、6月4日に太白が昼に現れ
た(国の乱れる凶兆)。 6月18日に京と畿内で大祓を行う。旱魃のため黒毛の
馬を丹生川上神に奉献する。7月19日に西大寺西塔に落雷、8月13日に大風、
8月15日頃、全国で蝗の害、9月には毎夜瓦・石・土塊が内豎所の庁舎や京中
の家々の屋根に落下し、20日余り続く。10月9日に地震があった。
 翌、宝亀8(777)年2月28日、畿内五ヵ国で疫神を祀る。 2月30日に日食、
3月19日頃、宮中で頻りに怪異あり、大祓を行う。4月に雹・氷が降り、また
太政官・内裏の建物に落雷ある。5月に霖雨(幾日も降り続く雨) あり、8月に
も霖雨ある。
 宝亀(777)8年11月1日に光仁天皇が不豫(病)となり、12月に山部親王(桓
武天皇)も死の淵をさまよう大病を得た。この年の冬、雨が降らず井戸や河
川が涸れ果てた。『水鏡』は「冬雨も降らずして世の中の井の水みな絶えて
宇治川の水既に絶えなむとする事侍りき」と記している。
 これらの事が井上内親王の怨霊によるものと考えられ、皇太子不例(病)の
3日後の同年12月28日に井上内親王の遺骨を改葬し、墓を御墓と追称し、墓守
一戸を置くことを決めた。
 宝亀9(778)年に入り、皇太子平癒のため東大寺・西大寺・西隆寺の三寺で
誦経が行われた。同3月24日、皇太子が病に臥して、病状思わしくない状態が
何ヶ月も続いていることから、天下に徳のある政(まつりごと)を示すために
大赦の勅を発することとなった。同3月27日、皇太子回復のため、幣帛を伊勢
神宮と天下の諸社に奉納された。畿内と畿外の各境界で疫神を祀らせた。同
10月25日、皇太子自ら病気平癒の御礼のため伊勢へ。70歳を超えても政務に
精励していたが、天応元年(781年)2月、第一皇女能登内親王に先立たれてか
ら心身ともに俄かに衰え、同年4月3日、病を理由に皇太子に譲位。同年12月
23日、崩御。皇后死後、6年と8ヶ月のことであった。和風諡号は「天宗高紹
天皇」(あめむねたかつぎのすめらみこと)である。
 死の直後にあたる天応2年(782年)閏正月頃、天武天皇の曾孫による氷上川
継の乱と後に呼称されるクーデタ未遂事件が起きた(この年の8月、延暦元年
に改元)。父は恵美押勝の乱で戦死した塩焼王、母は不破内親王であった。延
暦元年(782年)6月14日、人臣の最頂点である「左大臣正二位兼大宰帥藤原
朝臣魚名」までもが加担していたとして免大臣とされ、その子「正四位下鷹
取」は石見介に、「従五位下末茂」は土左介へ、「従五位下真鷲」がそれぞ
れ左遷された。藤原魚名は翌年7月25日頓死した。光仁天皇の死後も政が落ち
着くことは決して無かった。

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